
設立 | 1931年4月25日 |
創設者 | フェルディナント・ポルシェ |
本社所在地 | ドイツ バーデン=ヴュルテンベルク州 シュトゥットガルト |
子会社 | ポルシェデザイン |
親会社、グループ | フォルクスワーゲン、フォルクスワーゲングループ |
公式サイト | https://www.porsche.com/international/ (英語) https://www.porsche.com/japan/jp/ (日本語) |
歴史
フェルディナント・ポルシェ(ポルシェ博士)は、1931年4月25日に2人の出資者とともにDr. Ing. h. c. F. Porsche GmbH(名誉工学博士F.ポルシェ有限会社、エンジンおよび自動車製造における設計およびコンサルティング)を設立した。当初、自動車のデザイン・開発業務、コンサルティングを行い、自社名義の自動車は製造していなかった。
~最初はデザイン会社として~
設立数年間の仕事で最も有名なのは、ドイツ政府から国民のための自動車、フォルクスワーゲンの設計依頼である。国民のための自動車として製作されたフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)は後に、史上最も成功した自動車として現在まで語られることとなった。

当時、図面にはモデル名の前に “タイプナンバー” と呼ばれる社内コードをつけていた。以降、タイプ・ナンバーはポルシェの各モデルを識別する番号として、社内コードのみならず正式名称として現在に至るまで使われている。
~波乱の第二次世界大戦、戦後~
第二次世界大戦中、フォルクスワーゲンの生産は、フォルクスワーゲン・ビートルの軍用バージョンであるキューベルワーゲンとシュビムワーゲンの生産に移行された。そして、フェルディナント・ポルシェは重戦車のティーガーやエレファント重駆逐戦車を設計した。
“Ferdinand Porsche”の作者であるファビアン・ミュラーは、ポルシェは戦争中、何千人もの人々を強制的に工場で働かせたと記している。労働者たちは常に衣服に “P “の文字を付けていた。それは “ポルシェ”ではなく、”ポーランド”を意味していた。
第二次世界大戦終盤の1945年、フォルクスワーゲンの工場はイギリスの手に落ちた。フェルディナント・ポルシェはフォルクスワーゲン経営委員会会長の地位を失い、イギリス陸軍少佐イヴァン・ハーストが工場の責任者となった。(社内報では「フォルクスワーゲンを救った英国人少佐」と報道された)
戦後
終戦後の1945年12月15日、フェルディナント・ポルシェは戦争犯罪の容疑で逮捕された。
フェルディナント・ポルシェの息子であるフェリー・ポルシェは、20ヶ月の服役中に自分が買いたいと思う自動車が見つからなかったため、自分好みの自動車を製造することを決意し、その車がポルシェ最初の車となる。
~ポルシェ最初の車~
後に356となる最初のモデル356.001は、オーストリア グミュントにある小さな製材所で製造された。試作車はドイツのディーラーに展示され、予約注文が一定の基準に達すると、フェルディナントの娘と息子によってオーストリアに設立されたPorsche Konstruktionen GesmbHでアルミ製ボディの生産が開始された。ポルシェが最初に販売したモデルであることから、”ポルシェNo.1”と呼ばれている。
1950年に356の生産がシュトゥットガルトにある父親のDr. Ing. h.c. F. Porsche GmbHに引き継がれると、オーストリアのPorsche Konstruktionen GesmbHは消滅した。


フェルディナント・ポルシェの死
バーデン・ヴュルテンベルク州の成立から間もない1951年1月30日、フェルディナント・ポルシェは脳卒中の合併症により死去した。経営は息子のフェリーに託されることとなった。
ポルシェ・クレスト
エンブレムのポルシェ・クレストは、1952年に広報部長のヘルマン・ラッパーとデザイナーのフランツ・ライムシュピースがデザインした。シュトゥットガルトを首都とした1918年から1933年のヴァイマル共和政時のヴュルテンベルク自由人民州の紋章に由来する。シュトゥットガルトの紋章はロゴの中央にインエスカッシャン(盾の中の盾)として描かれている。右上と左下の赤い縞は知を、金色の地色は豊穣を表す麦の色となっている。


盾の左上と右下にあるギザギザは鹿の角を表している。

~戦後のレースで大活躍、今も残る名前~
ポルシェは1951年、ルマン24時間レースで356SLを出走させ、1,100ccクラスでクラス優勝を果たし、世界にその名をとどろかせた。
レースでの活躍もあり、同年には356の合計生産台数は1,364台に達し、年末までにポルシェの従業員は200人以上になり、売り上げも好調だった。
1952年10月には、従来のエンジンを改良したタイプ356 1500Superがデビューした。これ以降、高性能グレードにはスーパーを意味する”S”の文字が与えられている。
1953年パリモーターショーでポルシェのエンジニア、エルンスト・フールマンが設計したQOHCエンジンが初めて正式公開された。このエンジンはフールマン・エンジンと呼ばれ、タイプ550(550/1500RS)に搭載され、メキシコの公道レースであるカレラ・パナメリカーナ・メヒコで成功した。
356カレラ以降、現在まで、ハイパフォーマンス・スポーツモデルにカレラ・パナメリカーナ・メヒコへのオマージュとして“Carrera”(カレラ)の名が与えられている。
1953年のル・マン24時間レースで356で参戦し、見事にリチャード・フォン・フランケンベルク/ポール・フレール組が総合15位で完走し、1,500ccクラスで優勝を果たした。
~今なおポルシェを代表する車の誕生、356は幕を下ろす~
ポルシェトップのフェリー・ポルシェは、図面をシャーシメーカーであるロイターに持ち込んだ。しかし、ロイターが901製造への投資をためらったため、1963年7月に株式を約600万ドイツマルクで取得した。1964年3月1日にロイターの工房はKarosseriewerk Porsche GmbH(ポルシェ車体製造会社)に変更された。その後、ロイターはシートメーカーとなり、現在ではレカロとして知られている。
1963年9月のIAA(フランクフルトモーターショー)で、356の後継となる901の試作車が発表された。
IAAからちょうど一年後の1964年9月に901の生産が開始された。
ポルシェはすべてのプロジェクトにタイプナンバーを振っていたが、901という名前はフランスの自動車メーカープジョーの商標である”x0x”という中央に0が来る3桁の数字に反していたため、911に名前が改められた。しかし、レーシングモデルはタイプナンバーの番号順に従った(例:904、906、908)。
911はポルシェのフラッグシップとして伝統的なモデルとなり、ロードカーとしてだけでなくGTレース、ラリーなどのレースでも成功を収めた。数世代にわたる改良を経て、現在も生産が続けられている。
~またもやレースで大活躍~
1960年代中盤のレースカー904の活躍を筆頭に、1970年代は917、935、936で、1980年代は956、959、961などのレースカーが活躍を収めた。
この中でも、最も有名と言っていいのが917である。917はオーストリアリンク1,000kmやルマン24時間レースなどの耐久レースで優勝し、それ以外にも数多くの記録を残し、ポルシェの歴史だけでなく、レース史に残る名車となった。
80年代には、レースカーだけでなく、マクラーレンからF1エンジンの製作依頼を受け、通称TAGポルシェと呼ばれるエンジンを開発し、そのパワートレインでマクラーレンはF1で大成功を収めた。
~フォルクスワーゲンとの共同開発~
914をフォルクスワーゲンと共同開発し、1967年IAAで正式発表した。914を販売するために、1969年にVW-Porsche-Vertriebsgesellschaft mbH(VW ポルシェ販売会社)を共同設立した。グレードは4気筒エンジンを搭載した914、6気筒エンジンを搭載した上位モデル914/6を併売した。他のポルシェよりも圧倒的に安い価格帯での販売だった914はベストセラーとして65,331台が1970年~1973年の3年間で売れた。
~フェリー・ポルシェの決断~
1972年、会社形態がKG(Kommanditgesellschaft、有限責任事業組合)からAG (Aktiengesellschaft、公開有限責任会社)に変更された。これは、本田宗一郎がホンダにおいて「社内に家族を持たない」という一族経営をしていないことを知ったフェリー・ポルシェが、会社の規模が一族経営の域を超えていると考えた。これに伴い、息子のF.A.ポルシェやフェルディナント・ピエヒなど、会社の運営に関わるほとんどの一族が会社を去った。
~911に訪れた危機、伝統モデルのデビュー~
ポルシェの初代最高経営責任者(CEO)は、エンジン開発部門に在籍していたエンジニアのエルンスト・フールマンだった。フールマンは、356カレラや550スパイダーに採用された、フールマンエンジンの設計で有名だった。RR駆動のバランスの悪さや販売台数の伸び悩み、規制強化に対応するため、911を1970年代中に廃止し、万人に扱いやすい車としてFR駆動でV8エンジンを搭載したワゴンタイプグランドツアラー928に置き換える計画だった。928は911より販売台数が伸び、ラグジュアリースポーツとしても大成功を収めた。しかし、911は廃止されなかった。その理由は主に、911の愛好家やファン達の声のおかげだった。
928は1995年に生産終了となったが、ポルシェのスポーツラグジュアリー思考に大きく影響を与えた車だった。そして、世界のメーカーが928を研究し、以降のモデルに生かされた。
1981年、初代CEOフールマンの後任としてペーター・シュッツが就任した。1987年に経営不振の責任を取るべくCEOを退いたが、356で大好評だったカブリオレを911(タイプ930) カブリオレとして復活させ、北米市場で成功した。現行の911でもカブリオレは存在し、なくてなはならないモデルとなった。
~1990年代、ポルシェ売却の危機を救った英雄~
1993年、前CEOの影響もあり、ポルシェの経営が安定せず買収されかけていた時期に正式なCEOとしてDr.ヴェンデリン・ヴィーデキングが就任した。
Dr.ヴェンデリン・ヴィーデキングは、生産効率向上を考え、トヨタから管理者として多くの技術者を招き入れ、リーン生産方式を社員たちに学ばせた。そうした取り組みのおかげで2年後の1995年には危機的状況を脱し、経営を好転させ、最終的には効率的で収益性の高い企業へ変えた。
1996年には、エントリーモデルとしてボクスター(986)を市販化した。タイプナンバーではあるが、伝統的な連番で命名するのではなく、新しい方法で命名された。このモデルはエントリーモデルらしい価格にするため、トヨタから学んだ生産効率向上とコスト削減を徹底的に行った。
1997年に911(タイプ993)が生産終了。伝統ある空冷エンジンの歴史に幕を下ろした。
1998年に主要市場すべてにポルシェの直接サポートを提供するため、日本にもポルシェの子会社としてポルシェ・ジャパンが設立された。
~2000年代初期、決断、失敗、買収~
フォルクスワーゲンの株式取得を決断し、2007年までに31%の株式を獲得。事実上ポルシェ傘下となった。しかし、2007年から始まった世界金融危機でポルシェの経営は悪化した。そして、フォルクスワーゲン買収の中心となっていた投資銀行が経営破綻したため、計画は中止となった。
経営悪化を受け、2009年に1990年代の経営危機を救ったDr.ヴェンデリン・ヴィーデキングはCEOから退いた。
経営悪化で買収計画が中止となったため、反対にフォルクスワーゲンがポルシェを買収する計画が決定した。2011年半ばには経営統合をする予定だったが、株式取得の訴訟問題の影響で、2012年8月1日にフォルクスワーゲンが全株式を取得し、ポルシェはフォルクスワーゲンの完全子会社になった。
~ワーゲン傘下後~
2022年9月29日、フォルクスワーゲンはポルシェの議決権のない優先株の一部を上場し、ポルシェは株式公開企業となった。しかし、フォルクスワーゲンはポルシェの75%の株式を保有している。
車
個人的見解
自分が好きなメーカーの1つであり、911には乗ってみたい。第二次世界大戦中にイギリスの手に落ちるものの、ポルシェとしてずっと残っているのはすごいと感じる。
デザインアイコンを大切にしているメーカーで、911はモデルチェンジされるごとに多少の変更はあったものの、現在も丸目ヘッドライトを使っている。そして、FRレイアウトの928などにも丸目を使っていた。
自動車メーカーとして、レースでも様々な記録を残している会社であるが、あまりにも長くなるため書けなかった。