
設立 | 1910年 |
創設者 | ウーゴ・ステッラ |
創設後に関係する人物 | ニコラ・ロメオ |
本社所在地 | イタリア ロンバルディア州 ミラノ |
コーポレートカラー | 赤(アルファレッド) |
親会社、グループ | ステランティス N.V. 、ステランティスグループ |
公式サイト | https://www.alfaromeo.com/ (英語) https://www.alfaromeo-jp.com/ (日本語) |
歴史
1906年にフランスの自動車会社アレクサンドル・ダラックがイタリアの投資家数名とともに、ナポリにソシエタ・アノニマ・イタリアーナ・ダラック(SAID)を設立。設備の整った工場が必要だったため、同社はすぐにミラノのポルテッロ地区へ移転した。1909年に投資家の一人、ウーゴ・ステッラが社長に就任。しかし、SAIDは1909年後半に売れ行きが低迷したため、社長のウーゴ・ステッラが新会社の設立を提案した。
1909年7月にウーゴ・ステッラがアルファ初のチーフエンジニアとなるジュゼッペ・メロージとアルファ最初の車となる12HPと24HPについて契約を交わした。
そして1910年、ウーゴ・ステッラと他のイタリア人共同出資者が新会社であるA.L.F.A.(Anonima Lombarda Fabbrica Automobili、ロンバルダ自動車製造会社)を設立し、同年6月24日、SAIDを買い取りようやく自動車メーカーとして幕を上げた。
エンブレムは、エンジニアのジュゼッペ・メロージの統括のもと、部下のロマーノ・カッターネオが原案を手がけた。ミラノの紋章にある聖ゲオルギウス十字(赤十字)とミラノで支配権を確立したヴィスコンティ家の紋章である、人を飲み込む大蛇(ビショーネ)が中央に組み合わされ、周りの円にはイタリア王国、サヴォイア家の家紋の結び目が左右にあしらわれた。そして、そのエンブレムを頂く盾として三角のグリルが備わる。
1972年以降のエンブレムからはこの結び目がなくなったが、現在もこのエンブレムの形は崩れていない。


~最初の車、最初のレース~
この会社で生産された最初の車は、1909年にイタリア市場に適した新車の設計のため契約を交わしたジュゼッペ・メロージが設計した24HPだった。メロージはその後、40/60HPなど、よりパワフルなエンジンを搭載したA.L.F.A.の車をデザインすることとなる。
A.L.F.A.はレースに進出。アルファ初のレースでフランキーニとロンゾーニは24HP2台で1911年のタルガ・フローリオに出場したがリタイアで終わった。
1914年には、4気筒エンジン、ダブルオーバーヘッドカムシャフト、1気筒4バルブ方式、ツインイグニッションを備えた先進的なグランプリカーGP1914(40/60 GP)が設計・製造された。しかし、第一次世界大戦の勃発により、A.L.F.A.の自動車生産は3年間停止した。
~第一次世界大戦~
1915年8月、なかなか経営が安定しなかったA.L.F.A.はナポリの起業家ニコラ・ロメオに株式譲渡された。
アルファは、イタリアと連合国の戦争努力のための軍用品を生産するために工場を改造した。軍需品、航空機用エンジン、その他部品、コンプレッサー、発電機などが同社の既存の自動車用エンジンをベースに、戦時中に大幅に拡張された工場で生産された。
戦後1918年ニコラ・ロメオ技師有限会社と吸収合併し、会社名がニコラ・ロメオ技師株式会社となりニコラ・ロメオがA.L.F.A.の経営権を手にした。
~アルファロメオへ~
1920年、社名がアルファロメオに変更され、20/30HPが新しいエンブレムを付けた最初の車となった。
最初の成功は1920年、ジュゼッペ・カンパーリがムジェロで優勝し、エンツォ・フェラーリがドライブしたタルガ・フローリオでも2位に入ったことだった。ジュゼッペ・メロージが引き続きチーフデザイナーを務め、堅実なロードカーを生産し、成功を収めたレースカー(40/60HPやRLタルガ・フローリオ)も生産し続けた。

幸運の四つ葉のクローバー
1923年タルガ・フローリオを走ったAlfa Romeo RLTFに白地の三角形に四つ葉のクローバーが入ったマークを付けてウーゴ・シボッチが初優勝した。これが”**Quadrifoglio(クアドリフォリオ)”**の始まりとなった。以来、アルファ・ロメオにとって白地に描かれた四つ葉のクローバー(クアドリフォリオ)は、幸運のお守りであるとともにレーシングスピリットを象徴するものとなった。その伝統は、現行のアルファロメオの高性能モデルやレーシングカーにも受け継がれている。
~国策と第二次世界大戦~
1928年にニコラ・ロメオが事業の失敗で去り、1930年、ニコラ・ロメオ技師株式会社から自動車部門と航空機エンジン部門が独立しS.A. Alfa Romeo(S.A.アルファロメオ)になった。
1933年に世界恐慌からの経営難と政治的圧力からイタリア産業復興公社(IRI)の支配下に入り、国営化。アルファロメオはムッソリーニ率いるイタリアの象徴となった。この時代、アルファロメオは裕福な人々のために、カロッツェリア・トゥーリングやピニンファリーナによる特注車を製造した。アルファロメオは国策によってレーシングカーやスポーツカーを製作しながら軍需産業をすることになった。
~戦後~
市販車メーカーとしての道、立ちはだかる障害
終戦後、ウーゴ・ゴバートの後を受けてアルファロメオのトップとなったパスカレー・ギャッロと新たに自動車部門のゼネラルマネージャーになったアントニオ・アレジオの指揮によって自動車生産の立て直しが図られ、オラツィオ・サッタに新車開発が委ねられた。
1947年、戦前の高級スポーツカー6Cに改良を加えて生産を再開。そしてカロッツェリア・トゥーリングによる華麗なボディを纏った6C 2500 SSは、ヴィラ・デステのコンクール・デガンスでグランプリ・リファレンダム(一般投票によるグランプリ)を受賞し、これにより6C 2500 SSは、Villa D’Este(ヴィラ・デステ)と呼ばれ、歴史に残る名車となった。
1948年、国営企業のイタリア産業復興公社(IRI)により設立された機械産業持株会社のフィンメッカニカ管理下になりS.A. アルファロメオからAlfa Romeo Società per Azioni(アルファロメオ・S.P.A.)に。
1950年、少量生産という戦前までの伝統を捨て、それまで培った技術力を維持しつつより大衆に歩み寄った量産車メーカーへ。そして、この方針に従って戦後一番最初に一から開発されたモデルが1900シリーズであった。
国営企業故の弊害
アルファロメオは国営企業であったため、しばしば政治的な圧力にさらされた。未開発のイタリア南部の工業化を支援するため、アルファロメオの新型コンパクトカー、アルファ・スッドはカンパニア州ポミリアーノ・ダルコの新工場で生産されることになった。車名のアルファスッド(スッドは南部の意)も、その生産地を反映している。
1968年1月18日、Industria Napoletana Costruzioni Autoveicoli Alfa Romeo-Alfasud S.p.A.(アルファスッド)という名の新会社が設立され、その90%はアルファロメオに、10%は政府が管理する持ち株会社フィンメッカニカに帰属した。この工場は、フランスの1968年の抗議運動とイタリアの暑い秋(労働運動)をきっかけに建設されたもので、「適切に開始」されることはなかった。ポミリアーノ工場の欠勤率は1970年代を通じて16.5%で、最高で28%に達した。
戦後のモータースポーツでも成功
モータースポーツが再開され、シングルシーターレーシングカーという新しいフォーミュラ(F1)が導入された。戦前にヴォワチュレット(シングルシーターの小型レースカー)レースを戦うために製作された158にとって理想的な舞台となり、ジュゼッペ・ファリーナは1950年に158で初のF1世界選手権を制覇。1951年にはファン・マヌエル・ファンジオがアルファロメオの2年連続チャンピオンに輝いた。

1960年代、アルファロメオは市販車をベースとしたモータースポーツに力を注いだ。1966年、GTA(グラン・ツーリスモ・アレッジェリータの略)はスポーツカークラブ・オブ・アメリカのトランザム選手権で初優勝を飾った。

~また財政難、救いの手~
1970年代になると、アルファロメオは再び財政難に陥り、1980年には生産能力の約60パーセントほどで生産をした。アルファロメオはIRIによって管理されていたため、労働者の給与の約4分の1が州の失業機関を通じて支払われ、アルファロメオの工場は2カ月に1度、2週間休止していた。既に古くなったモデルラインナップと非常に低い生産性に加え、恒常的ともいえる産業不安とイタリアの高インフレ率が重なり、アルファロメオは赤字に転落。
アルファロメオの当時の社長エットーレ・マッサセッシとイタリアのフランチェスコ・コッシガ首相が支持した日産との合弁事業も結果的には失敗に終わるなど、経営を立て直すために色々な手段が試された。
1986年まで、IRIは大赤字に苦しんでおり、アルファロメオは過去13年間黒字を計上していなかった。そこでイタリア国有の持株会社フィンメッカニカは経営不振のアルファロメオを民営化することに。1986年、フィアットにアルファロメオの全ての株とともに売却された。
~フィアットに助けられアルファロメオ復活へ~
フィアットはフォードがアルファロメオの一部を買収して会社を再建し、時間をかけて出資比率を高めるという提案をしたためアルファロメオとの合弁計画を撤回した。しかし、フィアットはアルファロメオの全株式を獲得し、イタリア人労働者に雇用保証を提供することを選択。また、フィアットによる買収によってアルファロメオがイタリアの手に留まることは、関係者にとっても痛手にならなかった。
1986年、アルファロメオは伝統的なライバルであったランチアと合併し、フィアットのアルファ・ランチア・インダストリアーレS.p.A.となった。1981年、当時の社長エットーレ・マッサチェージは、アルファはフィアットのエンジンを使用しないと明言していたが….
1990年以降に生産されたモデルには、革新的なスタイリングとスポーティというアルファ伝統の美点に、製品合理化による費用削減などのメリットを組み合わせたものがあり、147GTAバージョン、ジウジアーロ・デザインのアルファブレラ、8Cコンペティツィオーネと呼ばれる高性能スーパーカー(戦前に最も成功したスポーツカーおよびレーシングカーのひとつである1930年代の8Cにちなんで名付けられた)などがある。
2007年初め、Fiat Auto S.p.A.(フィアット・オート)が再編され、Fiat Automobiles S.p.A.(フィアット・オートモビル)、Alfa Romeo Automobiles S.p.A.(アルファロメオ・オートモビル)、Lancia Automobiles S.p.A.(ランチア・オートモビル)、Fiat Light Commercial Vehicles S.p.A.(フィアット・ライト・コマーシャル・ヴィークル)の4つの自動車会社が新たに設立され、再びランチアとアルファロメオが別々になった。
しかし… 2000年代から現在にかけてアルファロメオは販売台数の減少に苦しんでいる。2010年の販売台数は約11万2000台で、フィアットのマルキオンネCEOが掲げた世界販売目標30万台を大幅に下回った。同社は2011年にジュリエッタ10万台、MiTo6万台を含む17万台の販売目標達成を目指したが、実際にはその年の販売台数は約13万台だった。 中期目標は2014年までに北米市場からの8万5,000台を含む50万台だった。 2017年、アルファロメオは生産台数を62%増やし、15万7,722台を生産することに成功した。
~ステランティス傘下に~
2021年1月16日、フィアット・クライスラー・オートモービルズとグループPSA(プジョー株式会社)の事業が統合され、ステランティスが設立。社名がステランティス・イタリアに変更され、ステランティス傘下に。
販売台数が減少しているにもかかわらず、アルファロメオのCEOであるジャン・フィリップ・インパラートは2021年に、2022年から2026年の間に毎年新モデルを発売すると発表した。
2022年3月、ステランティスはグループ長期戦略 Dare Forward 2030 を発表。グループ内でのアルファロメオの立ち位置はDSオートモビルズ・ランチアを含めたプレミアムグループに定義された。電動化戦略については、2030年までにランチア、DS、アルファロメオ、マセラティの全モデルをBEV化する目標が設定された。この計画に伴い、2022年6月、ブランド初となるプラグインハイブリッドSUVのトナーレを発表した。
2024年には初のBEV(バッテリーEV)であるミラノ(ジュニア)を発表し、2027年以降は全モデルをBEVにする計画を立てている。
車
個人的見解
アルファロメオは日本でも意外と人気があるメーカー。何度も経営難になったり、国営化されたとしても独自のデザインアイコンを重んじているその努力は、称賛に値するし、だからこそ壊れやすいと馬鹿にされたりしても車好きに愛されるメーカーだと感じる。自分の人生において絶対にアルファロメオの車は所有したいし、乗りたい。